ディレクターズノート
門脇篤(現代アーティスト)
「日本人は、とにかくすべてを奪って行った。オランダ人は決まった日に決まったものを持って行くだけだったが、日本人は突然やって来て、本当に何もかも持って行った。私は日本の兵士に命じられて、ヤシの木に登って実をとってくるように言われた。そのヤシの木の持ち主の目の前でね」 「日本人もオランダ人も、今あんたが自転車でやって来たこの道路を通ってやって来たよ。身ぐるみはいでいったから、コメを入れる袋を着てしのいだよ。それから海岸で、陣地づくりに駆り出された」 これまでアチェの村々で、第二次大戦中のできごとを何人かに聞いた。中には「日本人はオランダ人を追い出してくれた友達だ。日本人に歌や体操を習ったり、逃げた鶏を捕まえてあげたり、いい思い出だよ」という思い出を語る人もいたが、総じて略奪者であり、若い人でも聞けばほとんどの人から「日本兵に連れて行かれ、帰らなかった親戚がいると聞いている」といった話が出て来る。 インドネシアでアート・プロジェクトを始めるにあたって、日本によるこの歴史について、避けて通ることはできないと私は考えていた。アチェの若者たちとプロジェクトを進めながら、おりにふれて当時を知る人にインタビューを行なったり、日本軍上陸の地や今も残るトーチカなど、日本軍の残した跡を見に行ったりもした。 しかし、これとどう向き合ったらいいのか、自分とこの歴史の接点をどう見つけたらいいのかを考えあぐねているうちに、それが私にとっては一番身近な戦争である一方、アチェの人にとってはその後の内戦の方が生々しく辛い、身近な体験であり、第二次大戦をことさらに取り上げようとする態度は、それこそ日本人の自己満足に過ぎないのかもしれないとも思うようになった。 そんな時に出会ったのが、元日本兵を祖父にもつアチェの女子大生マウリダ・ラフマだった。 シナリオをたどるようにして 彼女に初めて会ったのは、2018年の夏のことだ。その前年2017年の12月に、私はスマトラ沖地震の最大の被災地と言われるアチェの西海岸200キロを自転車で走った。東日本大震災のおり、自宅のある仙台から遠く離れた滋賀県にいた私は、電車と自転車を乗り継いで自宅へと帰り着いた。そのとき最後に自転車で走った距離が200キロだった。私はあのときに起こったことを今一度思い返すために、そしてまた遠く離れていながらも同じようにこのアチェの地で起こったことを我が身で追体験しようと、震災時に乗った自転車を飛行機で持ち込んだ。 ゴールとなるバンダアチェ市まで、だいたい200キロになるよう出発地点を地図上で探しているとき、私の目にとまったのがムラボーだった。だからこの町を選んだのはまったくの偶然だったわけだが、私の前にはこの後、最初から書かれていたシナリオをたどるかのような出来事が次々と起こっていった。西アチェ県の県庁所在地であり、スマトラ沖地震の震源のほぼ真向かいにある町で、12万の人口のうち、実に4万人が亡くなったというこの町には、かつて研修生・実習生として日本へ渡った人たちがOB会「フォーラム・アチェ・ジャパン」を作り、今も積極的に日本との交流を行っている。彼らにはたいへんな歓待を受けた。サイクリングの前日にムラボー入りした我々は、何も知らされずに市庁舎のホールに通され、まず我々を歓迎する大きなバナーに驚き、次々に披露される名士のあいさつや詩の朗読、伝統の踊りなどに面食らった。スタート時には大勢の伴走者が自前の自転車に乗ってつめかけ、副市長がスタートの旗を振った後は、市の郊外まで警察のパトロールカーが先導し、盛大に我々を送り出してくれた。 ここまでされて「はい、さようなら」というわけにはいかない。翌2018年の夏、アチェを訪れた私は、お礼と企画の成功を報告をするため、再びムラボーを訪問した。そこで偶然出会ったのがラフマだった。 最初、彼女は単にバンダアチェの大学に通うムラボー出身の女子大生と紹介され、いっしょにムラボーの震災遺構や観光スポットなどを見て回った。夕方になってそろそろ今日はお開きという段になってはじめて、彼女は自分の祖父が日本兵だったと、何かのついでのように口にした。そこから私のまわりで世界が急に流れを変えた。「第二次世界大戦」という、この大文字の歴史が、ひとつの顔をもった物語として立ち現れるのを感じた。 翌朝、ムラボーを発つ準備をしている我々を、ラフマの父イスカンダルさんが訪ねてくれた。戦後もインドネシアに残留した石川信光さんの次男にあたる方だ。信道さんはイスカンダルさんがまだ幼いころに亡くなったという。見せられた遺品の身分証明書には、職業欄に「薬屋」と書かれていたが、町の病院よりもよほど患者が訪れる診療所を開いており、周辺の村々にも自転車で赴き、お金のない人からはお金はとらない、そんな任侠の人だったそうだ。しかしそうした信光さんについての話より私が驚いたのは、イスカンダルさん自身の話だった。彼は兄のイスマイルさんとともに、1987年に一度日本の親戚を訪ねたのだという。それも言葉もわからない中、住所と電話番号だけというたったそれだけの手がかりでだ。 日本で感じた家族というもの 1979年にインドネシアで残留日本兵の互助組織「福祉友の会」ができると、設立者の中心人物で、インドネシア独立戦争時にはアチェ軍の一員としても戦った経験のある乙戸登さんが中心となって、名簿づくりや手書きの「月報」による情報交換、そして日本との交流が意図されるようになった。日本でもこれを支援する協力会が設立され、82年には厚生省未帰還者特別援護措置として、第一回の里帰りが実現、テレビや新聞でも残留日本兵についての特集が組まれるようになり、一躍世間の耳目を集めるようになっていった。そうした記事のひとつを読んだ日本の親戚から、ムラボーのイスカンダルさん、イスマイルさんのもとに1通の英語で書かれた手紙が届く。差出人は当時中京大学教授だった庭山英雄さん。ふたりのいとこにあたる人物である。ふたりは「会いたい」と書かれた手紙にこたえるべく、必死で働き、やっとの思いで手に入れたチケットを手に、全くのノープランで日本へと渡った。 ある意味、無茶な話である。しかしさまざまな偶然や善意によって(なんと当時日本駐在中だった我らがアチェ・コミュニティアート・コンソーシアム代表パンリマさんのお父さんも、偶然にも彼らの親戚探しを手伝ったそうである)、無事、ふたりは新潟県柏崎市の親戚の家を訪ねることができた。87年暮れの出来事である。その時、ふたりを東京まで迎えに行き、新潟であれこれと世話をやいてくれたのが、おじにあたる髙橋為治さんだった。 為治さんは信光さんの弟で、8人兄弟の末っ子。苗字からわかる通り、婿に出ている。入った先は、柏崎でもかなりの土地持ちの家柄で、中心部にある家からひとの土地を歩かずに海まで行けたという。国道沿いにドライブインを開業しており、店はイスカンダルさんが訪ねた当時のまま、息子の晃さんが今も営業をつづけている。イスカンダルさん、イスマイルさんはしばらくこのドライブインの敷地内に立つ高橋家に滞在しながら、戦友会の集まりなどにも呼ばれたという。ふたりは信光さんの実家の本家筋である石川家にも滞在した。しかし雪深いこの土地での滞在は、常夏の国から来たふたりには相当こたえたようだ。 滞在も2~3週間になったころ、ふたりは親戚からいったいどんな目的で日本へ来たのかと尋ねられる。「親戚との絆を断ちたくなかったから」とこたえると、「じゃあ財産ではないんだね」と言われたという。また、お世話になった為治さんからは、「私が生きている間は縁を切らない」と言われたそうだ。 自分と地続きの問題 イスカンダルさんはそう語った後、私たちに「日本の文化というのは、そういうものなのですか。こどもには、家族の意味というものは伝わらないものなのでしょうか」と言った。 通訳を介しての、初対面の人物からの断片的な話であり、またそのもとの話自体が言葉が通じない中でのデリケートな話し合いで、その半年後に兄イスマイルさんとともに改めて日本訪問についてのインタビューを行うと、イスマイルさんからは肯定的なエピソードばかりが飛び出してきたりもして、もしかしたらイスカンダルさんが何か全然違う受け取り方をしてしまったのではないかとも思うのだが、しかし実際がどうということとは別に、私はこのときのイスカンダルさんとの短い会見の中で聞いたその言葉に、ある種の真実を聞いた気がした。なんというのだろう、とても痛いところ、嫌なところを突かれたという感覚と言ったらいいだろうか。 例えば、東北の復興住宅では、高齢者がひとりで住んでいる例がかなりあるという話をすると、インドネシアの人は世代や性別にかかわらず、「ありえない」「意味がわからない」と真顔で驚く。私も本当に困ったことだみたいな顔をしたりするわけだが、それを自分への非難のように感じないのは、日本が植民地支配を行っていた事実について、それを自分の責任だとまで本当には感じないのと同様だ。逆に、家族というものは強い絆で結ばれているはずなのに、そしらぬ顔をできるというのはいったいどういうことなのだと言われてバツの悪さを感じるのは、それが私にとって自分と地続きの問題であり、具体的な行動やあり方を問うものだからだ。 ムラボーから帰る車中、私の頭にはずっとイスカンダルさんの言葉が離れなかった。日本に帰って、ラフマの日本訪問に向けて準備を進める中で、それはよりはっきりしたものになっていった。最終的にはみんな彼女を歓迎してくれることにはなったのだが、地球対話ラボの渡辺裕一さんとともに日本の親戚を探し出し、実際に会いに行ったり、手紙を書いたり、電話をしたりして事情を説明し、段取りをつけていく中で、「やはりかんべんしてほしい」「今回はちょっと」など、見つけ出した3箇所の親戚のうち2箇所から、ラフマの訪問を断りたいむねの回答を受け取ることになった。 そうした態度に「外国に親戚がいるなんておもしろいと思うのに、どういうことなんだろう」と思う一方で、近くの親戚とすら、両親や兄弟とすら、何年も会っていない私がいる。私は実は27年前、結婚を反対され、それがもとで親に勘当されて以来、両親とはほぼ会っていない。もっと言えば、この「安定」した状態に、面倒なことと向き合うことを避けて生きていける状況に、あえて余計なことをしなくてもいいと、ここまでやって来てしまった。「結婚を反対され」と書けば私には非がないようだが、それは単なるきっかけに過ぎない。そんなことで30年もの間、関係を絶っても何ごともないほどの関係しか、私は家族と築いてこなかった、大切に思えなかったということだ。 一度、「アチェ・コミュニティアート・コンソーシアム」(現「アチェ・コミュニティアート・ファウンデーション」)のもうひとりの代表ハナフィさんに家族のことを聞かれたことがある。もう何十年も会っていないとこたえると、驚愕の表情をしていた。そのときのことが頭にあったのかもしれない、2019年の夏、これまでの4年近くにおよぶ日本とのアート・プロジェクトをふりかえって、関係者20人ほどにインタビューを行ったおり、「日本のいいところ、悪いところを教えてほしい」という質問に、日本で研修生として働いた経験ももつハナフィさんは「日本人の悪いところは、家族と何年も会っていないということを普通に言えてしまうことです」とこたえ、自分がこれまで日本で会った何人かのとんでもない人(むろん私もその中のひとりだ)について熱く語ってくれた。 「日本の悪いところ、それは日本人の家族の関係です。私は言いたいです。私の国インドネシアですけど、家族の仲はいいです。悪い人もいます。でもほとんどの人は仲良くやっています。両親は尊敬すること。絶対お父さんやお母さんに悪いことしないでください。ムスリムの法律の中で、人間は三日間だけですよ、仲悪いんだったら三日間。それ以上仲悪いことがあったら、神様からよくないことをもらいますよ。それを信じています。話さないとか、三日間だけです。もっと長くはもっと悪いですよ。日本人は私の国の人と違う。私は直接見ました。私は子供と両親が何十年話さない、会ったことない、来ないとか、たくさん聞きました。兄弟と今どこにいるかわからない、簡単に口から出ました。よく聞きました。私は、あなたは両親のことわかりたくないですか、あなたはその人たちから生まれたんじゃないの?そういう心の中ですよ。変ですよ、あなたは。あなたは生まれて大きくなるまでお父さん、お母さん、育ててくれて、自分のため、あなたはどこか行きました。お母さんと二年間、二十年間見ないとか帰ってこないとか。あなた悪いです。兄弟と兄弟、家族の中、あなたはいっしょの中から生まれた。おなじところから出て、知らないところになる。あなたは何十年も妹を会わなかったとか、どんな顔かわからないと言う。絶対、変ですよ」 石川信光さんと残留日本兵 ここでイスカンダルさんのお父さん、石川信光さんとその家族について、私が知り得たことを整理しておこう。 石川信光さんは1916(大正6)年、新潟県柏崎市小島に、父・末松さんと母・ミンさんの8人のこどもの三男として生まれた。小島は柏崎の中心部から10キロほど長岡方面へ入った山間部だが、本籍のある土地は末松さんがミンさんと拓いた土地だという。両親が決めた相手との結婚が絶対の時代にあって、自分が決めた相手といっしょになるために家を出たのだそうだ。 新潟県が保管する兵籍簿によれば、信光さんは1938(昭和13)年、22歳の時に志願して軍に入隊。広島を出発し、3月10日にハルピンに到着。同地で編成された砲兵情報第一連隊に入営した。翌1939(昭和14)年5月からノモンハン事件が勃発。7月に応急派兵が下令され、7月8日にハイラルへ到着。9月28日までこの戦闘に参加している。日本軍の大敗によって同事件は終結。信光さんも9月28日にハイラルを後にし、ハルピンへと引き揚げた。その後41年の1月に満期除隊し、予備役へと編入されている。 兵籍簿に記されているのはこれだけだ。第二次大戦中の足取りについては何も記録が残っていない。イスカンダルさんが持っていた書類によれば、信光さんの戦時中の身分は軍属。厚生省の作成した未帰還者名簿や、「福祉友の会」が編纂した「インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」、一千名の声」によれば、スマトラ島パレンバンにあった南方最大の燃料生産施設「南スマトラ燃料工廠」にいたようだ。1945年12月6日にスマトラ島アサハンにあるタアラピアサ農園で復員。その後インドネシアの独立戦争に加わったことはわかっている。 戦後、インドネシアに残留した日本兵は900人をこえる。このうち、スマトラ組は約250人。アチェには大戦中に駐留していた部隊を離れて残留した兵士のほかに、シンガポールで訓練を積んだ特務機関のうち、茨城誠一少佐が率いる「茨城機関」が潜入。大方は連れ戻されたものの、戦後も残置諜者となってゲリラ戦を展開するよう訓練された機関員たちは、アチェ内部にとどまった。そのうちのひとり岸山勇次曹長はアチェ人の信頼を得て、ランサ付近の農園にスパイゲリラ養成学校を開校。ほかの11人の残留日本兵とともに教官を務め、アチェの若者たちに潜入や破壊工作、軍事訓練などを伝授したという。こうした例はほかにも見られる。このため、地球対話ラボの渡辺さんは石川信光さんが特務機関の一員としてアチェに残留したのではないかと想像の羽を羽ばたかせている。 しかし1950年にインドネシアの独立が承認され、オランダとの戦争が集結すると、インドネシア政府はアチェの独立運動に元日本兵が加わることを恐れ、当時スマトラ島に残留していたとされる100人以上の元日本兵を、メダンに軟禁する。独立の英雄たちは急にやっかいものとして扱われることになったわけだ。ここに信光さんがいたかどうかはわからない。しかし、この軟禁を契機に結成されたという「スマトラ・メダン日本人会」から1957年、信光さんあてに出された手紙(乙戸登さんの活動への寄付金を依頼する内容)が見つかっているので、関わりがあったことがわかる。 軟禁中にインドネシア政府はアチェの治安を掌握する一方、残留日本兵退去に向けて動き始める。日本政府は約60人の残留日本兵を帰国させるが、それでも100人程度が残留した。このときの状況を、戦後アジアに残留した1万人の日本兵を追った著書「残留日本兵」(2012年、中央公論新社)の中で、著者林英一さんは以下のように描いている。 「そもそも異国の地にあって彼らが腕をふるえる分野など皆無であり、結局、多くの者が技術か小商売か小農、闇商売を営んだ。具体的には無免許の医者、自動車修理、飲食店、行商、華僑の店の手伝いなどであり、一時は爆薬を使って漁をした者も大勢いた。このなかで一番成功したのが医者だった。100人足らずのアチェ残留日本兵の3分の1が医者をやったとされる」 石川信光さんも「ドクトル・ジャパン」と呼ばれる無免許の医者のひとりだった。我々はムラボー郊外の村で、当時石川さんの治療を受けたことがあるという老人に会うことができた。石川さんはアチェ語の通訳兼助手を連れて、自転車で村へと通って来ていたという。助手とはインドネシア語で話していた。治療でおぼえているのはペニシリンの注射だ。村で流行った、からだのあちこちに固い大きなイボができる疫病を、それで見事に鎮めてくれたという。 信光さんが亡くなったのは64年12月26日、48歳のときだ。それまでにムラボー出身で17歳年下のアニサさんと結婚し、4人の子をもうけた。亡くなったとき、息子のイスマイルさんは7歳、イスカンダルさんはまだ2歳だった。 イスマイルさんはムラボーのコミュニティで村長を長らく務め、今はたくさんの孫に囲まれて過ごしている。イスカンダルさんはジャワに渡り、大学を出た後はいくつかの仕事に就いた後、ムラボーへ戻り、信光さんと同様、薬剤の処方を行うほか、不動産管理の仕事なども手掛けている。奥さんとの間にラフマをはじめ5人のこどもがいる。2004年のスマトラ沖地震では全員が無事だった。 未来の構築と過去の精算 2019年3月、ラフマは初めて祖父の生まれ故郷、日本の地を踏んだ。上越新幹線で長岡まで行き、そこからはローカル線で柏崎へ。記録的な少雪で、いつもなら1メートル以上積もっているという雪は、ほとんど消えかかっていた。 ラフマ訪問の段取りをしていく中で、イスカンダルさんから聞いた日本の家族のちょっと冷たい対応の理由は、ある程度わかりかけていた。 イスカンダルさんからすれば、「会いたい」という手紙を受け取ったため、それにこたえなくてはと死に物狂いで働いて、やっと手に入れたチケットで渡った日本だったわけだが、受け入れ側の方からすれば、いきなり何の連絡もなく、藪から棒に「親戚がインドネシアから来てますよ」みたいな連絡が来て、東京まで迎えに行ってみると片道チケットで来たという。日本語も英語も話せない。寒い寒いとこたつにばかり入っている。しかもふたりの来日の発端となった手紙を書いた庭山さんは、このとき四国の香川大学に赴任中で、結局ふたりには合わずじまいだった。イスラム教徒ということで、食事にも気を使ってくれたそうだから、イスラムがまだまだ遠い文化圏だった80年代当時としてはかなり配慮してくれたと考えられるわけだが、今ですらアチェの若者を日本へ連れて来ると困るのが食事。はじめての海外経験者であるふたりが、吉野家もケンタッキーもない当時の地方の町でどれほど食事で難儀したかは、彼らを知る我々には想像に難くないが、インターネットもなく、イスラムやインドネシアについての知識は本を通してしか得られない当時、受け入れ側としてはほとんどどうしていいのかわからなかっただろう。 そうした記憶がいまだ生々しく残る当時の受け入れを体験した親戚たちに、「その娘が来るからぜひ歓迎してほしい」と、どこの誰との知れない我々のようなよそものが突然やって来たわけだから、警戒もするだろう。しかもその目的がアートによる国際交流という。ますます信用できなくても仕方ないというものだと思う。 だから、それでも最終的にはラフマと我々を受け入れてくれた親戚のみなさんは、立派な方たちだと思う。その一方で、インドネシアの家族や近所づきあいを何度か目の当たりにしている私には、日本の家族との間には壁があるような気がしたであろうラフマの気持ちもよくわかる。感極まって抱き合ったり、「また来なさい」と何度も口に出したり、その後もメッセージのやりとりがつづいていくような、そんな家族関係をデフォルトと考えているインドネシアの人たちの感覚からすれば、ごく普通の日本的歓迎ではよそよそしいものにうつるだろうし、ましてやどう扱っていいのかわかりかねる態度や腫れ物に触るような姿勢が少しでもうかがえたなら、それこそイスカンダルさんの思う「なぜ」であり、ハナフィさんの言う「おかしい」ものなのだろう。その壁やすれ違いのように私が感じたものは、もしかしたらお互いが見ているものの違いによるものなのかもしれない。ラフマは日本の親戚との関係に未来を見ている一方で、彼女を迎えた日本の親戚の方の多くは、彼女を過去とのつながり、それを精算することの中に見ているのかもしれない。むろん、過去を精算もせず、未来を作ろうともしていないこの私に言えたことでもないのだが。 しかしそれでもラフマは明るくふるまい、行く先々で親戚たちの心をとかしていった。最後に訪ねた埼玉県狭山市で会った、庭山英雄さんの弟、勲さんなどは、最後には涙を流してラフマの手を握った。 顔の見える物語へ 2020年1月、再びアチェを訪れた私は、3ヵ年計画で進めて来たアート・プロジェクトを終わらせる準備に取りかかっていた。2016年からのこの3年間、毎年夏と冬の2回、合計で1年のうち1ヶ月半ほどをアチェで過ごして来た。そのサイクルが今回で終わるのかと思ったとき、私はいつしかもう普通のものになってしまっていたこのアチェの朝の喧騒、ワルンコピー、辛い食べ物と甘いコーヒー、猫、ベチャ、笑顔の人々を、もう一度新鮮な気持ちでとらえなおそうとしている自分に気づいた。初めてアチェを訪れたときの驚きや、その後あった奇跡のようなさまざまな出来事。特に、日本ではとうていできなかっただろうアート・プロジェクトの数々。 次元は全く違うだろうが、戦争が終わって、日本に帰ることになった日本兵と自分とを重ねた。そのとき、彼らはいったい何を思っただろう。 今後について話しているときに、渡辺さんの口から出た「拠点を、アチェやインドネシアに移してみるのもいいんじゃないですか」という言葉が頭に浮かんだ。「アチェで若者たちをこんなに焚きつけたんですから」 インドネシアに残った少なからぬ日本兵が、残った理由としてあげていたのが、アジアの解放完遂のためだった。インドネシアで若者たちを焚きつけ、いっしょに未来を語っておきながら、「はい、さようなら」とはいかないと、彼らは独立戦争に身を投じた。 最後に、再びムラボーを訪ねた。ラフマと妹のナビラといっしょにムラボーの海岸に行くと、日本ではありえない、大きく完全な虹が出ていた。緯度が低いための現象で、私は信光さんもこの、日本では見ることのできない虹をきっと見たことだろうと思った。 その晩、イスマイルさん、イスカンダルさんに招待され、たくさんの家族に囲まれながら夕食をともにした。楽しく、あたたかい、心のこもったもてなしだった。それはおそらく、ラフマやその家族が、日本で受けたかった歓迎だったのだと思う。そしてそれは、石川さんから私へのメッセージでもある。第二次大戦という大文字の歴史が、私と私を取り巻く人たちの、顔の見える物語へと姿を変えた瞬間だった。 ここまで語って来たようなことを、私はムラボーにあるトゥク・ウマル大学で行われた上映会とトーク会に集まった200人の学生を前に報告した。上映会ではドキュメンタリー「私の祖父はインドネシアに残ることに決めた」の予告編が上映され、私の隣の席に座ったラフマからは、日本訪問についての報告が行われた。トーク会の最後に私は、この物語の結末について語った。「日本へ帰ったら、もう30年も会っていない両親に会いに行こうと思います」それが、私が描いたこの物語のラストシーンだ。 大学でのトークが終わった後、ラフマから「両親に会いに行ったら、教えてね」と言われた。私は「そうする」と約束した。残念ながら、新型コロナウィルスの影響でその約束はまだ果たせていない。 ムラボーを発つ前に、イスカンダルさんを訪ねた。いろいろな話をしたが、最後に言われた言葉は、素直にうれしかった。イスカンダルさんは私たちにこう言ったのだ。 「私たちが日本人の家系だと知って、これまでいろいろな人が訪ねて来たり、あれこれ調べたりしていったが、誰ひとりあなたたちのようなことはしてくれなかった。私は父の歴史を知ることができた。娘を日本へ連れて行ってくれ、離れ離れになった家族がまたひとつになった。ありがとう。あなたたちに会えて、本当によかった」 |
■試写会主催・お問合せ:門脇篤 [email protected] 080-4357-7035
■試写会共催:NPO法人地球対話ラボ、アチェ・コミュニティアート・ファウンデーション ■ドキュメンタリー製作:アチェ・ジャパン・コミュニティアート・フィルム(NPO法人地球対話ラボ、アチェ・コミュニティアート・ファウンデーション) ■助成:仙台市市民文化事業団、公益財団法人トヨタ財団、一般財団法人YSコミュニティー財団、国際交流基金アジアセンター ■Produksi Aceh=Japan Community Art film (NPO Chiku Taiwa Labo Aceh Community Art Foundation) ■Didukung oleh The Toyota Foundation The Japan Foundation Asia Center YS Ichiba Community Foundation Sendai City Cultural Foundation |